アイヌの部族

アイヌは主に5部族に分けられると言われている。17世紀のシャクシャインの乱の時代に主勢力として5部族いたから5つなんだろう。

でも、自分が思うに3つである。更に言うと2つか。

アイヌがいつ成立したのかってのはよく分からないようである。自分が思うに擦文文化からアイヌ文化への変遷は2つの要因からなされたと思う。

一つは平安時代と鎌倉時代ともに温暖な気候であったが、その合間に寒冷な時期があって飢饉に見舞われた。擦文文化はあまり一般的にはそうとは言われていないけど、温暖な気候を元に北海道各地に農耕文化を広めたことによって成立した。しかし、農耕に依存して人口を増やしたために、農耕が破綻して人口を維持できなくなると、縮小再生産というのが難しいように社会が崩壊して、おそらく、北海道から東北に逃げた。

続縄文時代から擦文文化に移るわけだけど、続縄文時代は人口がかなり少なかったが、東北の土師器文化の移民の流入で続縄文人も擦文文化人へど変化した。温暖な気候のために農耕が成立したため、人口が大幅に増え過ぎたのである。北海道というと鮭漁であるが、例えば、石狩川流域でほとんどなされるわけでもなく、漁猟も狩猟も補助的な生活手段になって、農耕に依存した生活になり、住居も変化する。その影響はオホーツク文化人のいた北海道東部や北部にも及ぶ。しかし、一時的な寒冷化による飢饉で全て崩壊して、北部と東部の漁猟、狩猟を基本とした部族だけしか残らなかった。

擦文時代の終焉の不可思議は遺跡が消えるとともに土器も消えることにあるようである。土器が消えるには鉄器などの金属器への変化が必要である。火を使うから。木器への変化だけでは説明が付かないわけで。自分は擦文文化人が消滅したとしか解釈しようがないように思える。

もう一つは擦文文化が東北との交易、つまり、奥州藤原氏との関係で成り立っていたが、奥州藤原氏が鎌倉幕府によって滅ぼされることにより、擦文文化人の活動も大きく制限されるようになった。交易による食料などが入手できなくなって、一層、社会の維持が困難になったのである。つまり、人口を縮小せざるを得ず、それはとても困難であるから前述と同様に社会が崩壊するわけで。

アイヌの前身は擦文文化人が北海道から去って行く中で北海道に留まる生活スタイルを続けていた、各地に点在するオホーツク文化人と樺太からアムール川流域に活動していて、後で北海道に入ってくる部族である。

まず、アイヌの5つの部族を挙げる。余市アイヌ、石狩アイヌ、シュムクル、メナシクル、内浦アイヌ。ただ、この分類は正確ではないと思う。

思うに2つの分類で分ける。

1)樺太、千島から北海道に点在していたオホーツク文化人。

2)南西部にいた1)と同族が東北から北海道南西部に和人が移民して定着することによって和人との交易収入により大規模に拡大した人々。

1)は排他的に孤立して暮らしていたり、アムール川流域の諸部族と交易していたりと少数ではあるが北海道やその周辺の各地に点在していた人々。唐子と分類される。擦文文化人の影響で擦文文化の住居などの生活様式を受容する。

2)は1)と同族が出発点であるが、アイヌが北海道で繁栄する基礎となった和人との交流の恩恵を和人との位置との近さから最初に受けた人々。シュムクルや日ノ本と分類される。2’)内浦アイヌとしてしばらく存在していたんだろうけど、和人地と近すぎるために和人がより遠くの部族と交易を拡大するに従い、その存在価値を失って、渡島半島から他へ流出して、渡島半島は和人地へと完全に組み込まれる。

その流れで2)は1)の領域を浸食しながら石狩川流域に移民し、勢力拡大し、3)石狩アイヌと変貌する。石狩アイヌは1)との混血を進めて、変質して行く。

また、2)は日高や夕張地方へと拡大し、この方面では東北からの和人の移民が渡島半島を超えて移り住み、混血していったこともあって、和人と関係の深い部族に変質していった。4)サルンクルと分類される。

1)は広い範囲内で分布していたが、樺太系を色濃く残し、日本海沿岸に分布する部族は1’)余市アイヌとなる。余市アイヌは石狩アイヌに浸食される一方、影響を及ぼす関係となる。この部族はアムール川流域へ覇権を求めるが元との戦いに負けて、一時、樺太からも掃討され、元との従属の上で、南樺太の権益を復権する。この部族は攻撃的である。

1)の一派の北海道東部から南東部の日高山脈南部沿岸までの部族は5)メナシクルと分類されるようになる。5)は和人地から遠いため、和人との交易の利権を他部族から奪う必要があるという厳しい状況の中、攻撃的で強い部族になる。

また、石狩アイヌが石狩川流域で拡大するとき、石狩川上流でメナシクルの影響を大きく受けた部族は6)ペニウンクルと分類される。

5)メナシクルは5a)道東の東南部メナシクルと十勝地域の5b)十勝アイヌに分類される。

まとめると、

1’)余市アイヌ
2’)内浦アイヌ
3)石狩アイヌ
4)サルンクル
5a)東南部メナシクル
5b)十勝アイヌ
6)ペニウンクル

で、5a)、5b)は1つとして、6)は無視して5つの部族であるが、元は1)唐子、2)日ノ本の2つである。日ノ本は2)よりもむしろ4)かもしれない。

言語的には、

4)は和人の影響を大きく受けて、その言語に和人の単語を多く含む。

4)ほどではないが、2)、3)も和人の単語をある程度、含む。

1’)、5a)、5b)はアイヌの祖先由来の単語を多く含む。

という感じになってるかと。文法的には抱合語から変化しなかった。

主流なアイヌの分類に述べたが、名も知れぬ少数部族が多数いて、消えて、吸収されて、残ってと変遷していったんだろうけど、詳しくは不明。

江戸時代以前の北海道の人口は極めて少なく、数千人や千人を切る状況だったと思われる。アイヌは一番発展した江戸時代でも、2万人ちょっとである。隣接する青森県はずっと面積は少ないが北海道の何倍もの人口を常に抱えている。そういう世界の少数民族、いや、少数部族の連合体の世界であり、気候の変動に伴って、人が消えたり、増えたりをした地域。その変遷をきちんと読むのは何とも難しい。

以上、直感と妄想から決めつけた内容なんでどのぐらい正しいかは知らん。